【診察室】iPS細胞 その応用と課題

【2013. 8月 15日】

 群馬大学生体調節研究所 小島 至  

 京都大学の山中伸弥教授に2012年のノーベル医学生理学賞が贈られました。それ以来、iPS細胞はマスコミにもしばしば登場しています。iPS細胞は体のあらゆる臓器に分化することが出来る「万能細胞」と解説されています。本稿では、iPS細胞がどのように作られ、どんな性質をもっているか、iPS細胞により何が可能になるか、どんな問題点が残されているかなどを説明したいと思います。

 iPS細胞の話の前にその原型であるES細胞について説明します。胎児の発生は受精卵からスタートします。受精卵は活発に分裂し、ヒトの場合、受精の3~4日後には胚盤胞と呼ばれる形態をとり、子宮に到達します。胚盤胞は内部に水を満たしたテニスボールのような形ですが、その中に内部細胞塊と呼ばれる一群の細胞があります。これらの細胞は、やがて胎児の体を構成する細胞になります。一方、外側の細胞は胎盤を形成します。内部細胞塊の細胞は体のあらゆる臓器を作る能力をもち、一個から一人の人間を生み出すことが可能です。このような細胞を多能性幹細胞とよびます。この細胞を取り出し、未分化状態のまま培養したものがES細胞です。ES細胞は分化機能をもたず、無限の増殖能をもつことから腫瘍細胞に似ています。実際、ES細胞を拒絶反応のないヌードマウスに移植すると、個々の細胞が勝手に多様な臓器に分化し、奇形腫(テラトーマ)を形成します。ES細胞は暴れん坊ですが、もしこれをうまくコントロールし、ある特定の細胞へと分化させることが出来れば、必要な細胞や場合によっては臓器を得ることが可能になります。このため多くの研究者がES細胞を使って再生医学の研究を行ってきました。しかしES細胞にはいくつかの問題があります。最大の問題は倫理上の問題で、この細胞を得るためには、ヒトの受精卵を犠牲にしなければならないことです。
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 山中先生はこのES細胞の研究をしていました。とくに「ES細胞は普通の体細胞とどこが違うか」「ES細胞のもつ多能性分化能は何によってもたらされるか」などを研究していました。また遺伝子の発現を調節する転写因子の研究に特に興味をもっていました。転写因子というのは、私たちの細胞がもつ遺伝情報の中からどれを読み出して蛋白質を作るかを決めている因子です。山中先生は、普通の体細胞とES細胞にある転写因子の違いを研究し、その過程で、「体細胞になくES細胞にのみ存在する転写因子を体細胞に入れれば、ES細胞のように多能性分化能をもつ細胞が出来るのではないか」と考えつきました。このような考えをもつ研究者は少なからずいたのですが、山中先生はその競争に打ち勝ちました。マウスの皮膚線維芽細胞に、現在では山中因子と呼ばれている4種類の転写因子を導入することにより人工多能性幹細胞(iPS細胞)を作り出したのです。2006年のことです。その翌年にはヒトのiPS細胞を作ることにも成功しました。  
 こうして作られたiPS細胞はES細胞によく似ています。iPS細胞もES細胞と同様に体のさまざまな臓器の細胞に分化することのできる多分化能をもっています。また無限に増殖する能力をもち、ヌードマウスに移植すると奇形腫を作ることも同じです。細かく調べるとES細胞とは異なる点もありますが、概ねよく似た性質をもつ細胞といえるでしょう。 
 幸いなことに、これまでのES細胞研究によって得られた結果のほとんどがiPS細胞に応用でき、iPS細胞をさまざまな臓器の細胞に分化させる方法がわかっています。分化させた細胞がどれくらい正常の細胞に近いかは、臓器によって異なります。筋肉の細胞や神経細胞などはかなり本物に近い分化能をもっていますが、膵β細胞や肝細胞のような高度に分化した内胚葉系の臓器の細胞はまだ未熟なものしか作ることができません。技術の確立が必要です。
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 iPS細胞の利用によりさまざまなことが可能になります。第一に、iPS細胞を分化させ、さまざまな臓器の細胞を体外で作製し、移植する細胞治療が可能になります。報道されているように、理化学研究所のグループが、網膜の加齢黄斑変性をこの方法で治療する臨床研究を近日中にスタートさせます。今後、パーキンソン症候群や拡張性心筋症に対する治療が可能になるかもしれません。また、iPS細胞から赤血球・血小板などを作製し、献血に頼らない輸血が可能になるでしょう。第二に、原因不明で治療法のない難病の患者の細胞からiPS細胞を作製し、病態解明や治療法開発を行うことが可能になると思います。実際、筋萎縮性側索硬化症などの患者からiPS細胞が作製され、研究がスタートしています。第三の応用は、iPS細胞を用いて肝臓などの細胞を作製し、これを創薬研究に利用することです。これまでなかなか使えなかったヒト肝細胞などが簡単に使えるようになるため、創薬研究、副作用の検討などは格段にはかどるでしょう。実際これはもう創薬の現場で実用されています。
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 大きな特徴をもつiPS細胞ですが、現時点ではいろいろな問題点もあります。第一は、安全性の問題です。とくに細胞移植に利用する場合はこれが最大の問題です。分化が不十分な細胞がわずかでも残ると、その細胞から腫瘍が発生する可能性があります。また遺伝子導入を行うため、ゲノムの安定性等に問題が出る可能性があります。現時点では腫瘍化の問題は解決していません。第二は、作製するiPS細胞の品質が均一ではないということです。同じ方法で作ってもiPS細胞の性質が微妙に違うという点です。第三は倫理的な問題です。ヒトのiPS細胞はES細胞と違い、受精卵を破壊しなくても作製でき、その点はいいのです。ただES細胞と同様にクローン人間を作ることが出来、それが問題です。その他にもいくつかの技術的、倫理的な課題があります。今後それらを一つずつ解決していく必要があります。

■群馬保険医新聞2013年8月号