【診察室】 噛むってスゴイ!

【2010. 10月 14日】

【診察室】

    噛むってスゴイ!
              ―在宅歯科診療の経験から―

 

                  前橋市 奥村歯科医院 奥村 享子

 

  私は歯科開業医です。病気で倒れた父の後を継いで早や40年になろうとしています。
  平成20年に摂食嚥下機能の研究、勉強会をぐんま女性歯科医師の会で立ち上げました。前橋赤十字病院摂食嚥下科・山川治先生の指導のもと、口腔ケアの意義、必要性、重要性などを日頃口腔ケアに携わるさまざまな職種の方々と勉強し、県内の高齢者医療施設に入所する方々を対象に実践し続けています。そして日々の診療のかたわら、施設に入所せず在宅で介護をうけている方にも出来るだけ時間をつくって訪問診療を行っています。そこで私の診療室では体験したことのない大きな経験をすることになります。それは噛むってほんとうに凄いことだということです。

  T子さん(92歳)の場合

 一人目はリュウマチで寝たきりのT子さん(92歳)で、歯が痛いので診てほしいという主訴でした。どんな口腔状態なのかを確かめるために訪問しました。左側上顎の1番から7番まで連結のブリッヂで、支台歯がグラグラでぶらさがっている状態。歯を合わせようにも痛くて口を閉じることも出来ず、介護をする息子さんが介護食を流し込むという食事状態でした。それでもT子さんは、胃ろうはいやだと断固拒否をして在宅医療を続けているということでした。
 とにかく、すぐにブリッジの支台歯を全て抜歯し、口が閉じられるようにしました。ほっとしたT子さんは、はじめてにっこり微笑んで「やっと楽になりました」。「長い間苦しかったでしょうね。噛めるようにしましょうね」と言うと、「本当?」と半信半疑でした。
 彼女の口腔状態は上顎左半分、下顎右側は残根状態で、すれ違い咬合です。何とか顎を安定させるためにも即時義歯を装着することにしました。ここではじめて左側でしっかり噛めるようになりました。私が持参したお煎餅とわかさぎの佃煮を本当においしそうに食べていました。
 T子さんはリュウマチで両手があまりよく利きません。指も関節が曲がってものを掴むことが出来ません。耳が遠くて、大きい声をださないと聞こえません。でも噛むことが出来て食欲がでてきました。私は寝たきりと決めてしまって食事を介助してもらうのは、決して本人のためにならないと思い、T子さんに、自分の力で食事がしたいかと尋ねました。彼女は自分の手で食べたいものを取って食べたいと答えてくれました。私は息子さんに、決して無理をせず、少しずつ食事の時にベッドを起こして食べるように話しました。彼女の夢はいつか桜の花を観に行きたいということでした。目標が出来たのでそれに向けて努力することにしました。
 ある時、約束の時間より少し早く訪ねてみました。T子さんはベッドを起こしてテーブルの上のカップを左手で押さえて、フォークを持って、カップの中のうどんをおいしそうに食べていました。「こんにちは」と言うと、「あれ、先生、こんにちは」と答えてくれたのです。何と聞こえないはずの耳が、僅かずつ聞こえるようになっていたのです。右手にフォーク、左手にカップを持って上手に汁を啜っているのです。
 誤嚥性の肺炎を起こさないように、しっかり口腔ケアを指導し、1日も早く車椅子で散歩が出来るように励ましていきたいと強く思う毎日です。

  B夫さん(80歳)の場合

 二人目はB夫さん。80歳でパーキンソン病、認知症で寝たきりで、経鼻管による栄養摂取方法です。歯が痛いということで訪問しました。残根状態の歯が数本ありますが、義歯を入れることで食事がきちんと出来るようになると思いました。
咬耗で尖っている歯を丸く調整して舌や頬の傷の痛みを和らげました。本人に口の中の状態を説明すると、「悪い歯は抜いて、ちゃんと噛みたい」ということでした。初めはか細い声で聞き取れない発音で、耳も遠く、大きい声で対応しないと反応出来ない状態でした。何度か通いながら、コミュニケーションをとっていき、何とか義歯を装着するまでになりました。抜歯は最小限に止め、残根上義歯で、早く噛めるようになることを優先しました。
 調整を何度か続けている頃、訪問すると「先生、暑いのに来てくれて悪いね」という男性の声。エッと思ってみると、B夫さんは手足が震えていながら、ニコニコして私を迎えてくれたのです。私は嬉しくて彼の手をとって「ありがとう」と言いました。介護をしている奥さんの話では「今ではベッド用のテーブルにおかずを並べて、食事は二人でしています。主人は私の食べているものを俺にもよこせ、なんて言うのです」とうれしそうに話していました。
 またそれから10日ほどして訪問すると、今度はなんと「先生、主人がおしっこをしたいから便所に連れていってくれって言うのです」。さらに「尿意や便意が回復して、自分で行きたいということは、特別内服薬が変わったわけではないので、考えられるのは、いつも先生に言われているようにしっかり噛もうとしているからとしか考えられない。噛むことは意識をしっかりさせるのですね」と話してくれました。
 B夫さんは近頃私に小さい頃の生い立ち、昭和の戦争の頃、仕事のことなど話してくれます。あの数か月前の状態からは夢のようです。そして最近、デイサービスを利用するようになり、週1回車で施設に通うことになりました。そこでは自分でスプーンを持って食事をしているとのことでした。
             *
 しっかり噛むことと口腔ケアで思いがけなく自立心が芽生えてきたT子さん。すごいと周りの人にほめられ励まされて、元気を取り戻していくB夫さん。二人の回復の変化に、改めて口腔ケアの大切さを思い、噛む力のすばらしさに魅せられている毎日です。
(ぐんま女性歯科医師の会 会長)

 
■群馬保険医新聞2010年10月号