【論壇】日本人の生死観の変容

【2012. 2月 15日】

日本人の生死観の変容

 昨年3月11日の東日本大震災は、約2万人もの死をもたらした。
 被災地の人の多くは、未だ行方不明となった家族の死を受け入れることができない。家族の遺体を確認できないからである。客観的にみれば、大災害に遭遇し、何カ月も音信不通であれば、死亡したものと考えざるを得ない。しかし、肉親を失った家族の心情は、万が一でも、どこかで生存していて欲しいと希求する。それでも半年経ち、10カ月経つと、遺体を確認できないながらも、日本古来の諦観により、だんだんと肉親の死を受容していく。被災地では、この受容が現在進行形で進んでおり、遺体無き葬儀が行われはじめているという。
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 一方、被害を免れた群馬県ではどうだろうか。日常の病死や老衰死において、故人の遺体を目の前にして、諦観からの受容がなされているであろうか。
 「否!」である。日頃から、死の看とりをされている医科会員の先生ならば、よくご承知の通り、受容できない家族が少なくない。死にゆく人が80歳でも90歳でもお構いなしで、死そのものを容認できず、悲しみを他者にぶつけることで、怒りを鎮めようとする人がいる。
 「治療に手落ちがなかったか」「なぜ救急車を呼ばなかったか」「入院治療が必要ではなかったのか」などと、医師を非難し、死への怒りをぶつけてくる。家族内であれば、その怒りの矛先は、一番弱い立場の嫁に向けられる。「看病が不十分であった」「親戚への連絡が遅い」など、自分自身の故人への不義理を棚に上げ、最も看病に貢献したお嫁さんを怒鳴りつける。
 このような行動に出る人は、普段の看病介護の詳細を見ていない、遠方から駆けつけた親戚に多い。むしろ、故人へのお見舞いも滞っていた自分の後ろめたさに立腹している事にさえ気付かぬまま、他者に対して、自分の怒りを吐き出す。こういう人は、普段から死について、あまり深く考えていないから、肉親の死をきちんと受け止められず、混乱した自分の気持ちを整理できぬまま、暴言を吐いてしまう。
 古来人類は、日常的に家庭内で死をみてきた。全人類が否応無く死に向き合い、考え、死を受容してきた。しかし昨今は、病院死が圧倒的に多く、在宅死は五%以下となった。子どもの時から死を身近に見聞きすることが非常に少なくなっており、家庭でも学校でも、死を学習するどころか話題にすらならない。このままでは、故人を前にして、前記の暴言を浴びせ、他者を辱める行為はますます増加していくのではないだろうか。
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 他方、死に行く本人はどうだろうか。死を医師に告知されたり、予感した時、まずは「自分が死ぬはずはない」と死を否定する。やがて自分の中で、どうしても死が避けられないという結論に達すると、思考が混乱して戸惑い、憂鬱になる。これを過ぎると死を認めざるを得ないものとして諦観に達し、ようやく死の受容にたどり着く。しかし、この行程は人によって行きつ戻りつ、揺れ動き変動する。認知症や脳卒中で意識が混濁していたり昏睡状態であれば、本人にこの思考行程はなく、代わりに家族がこの行程を歩むことになる。
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 私には、20年前、在宅の看とりで、苦い思い出がある。89歳の商店主で、末期肺がんの男性患者だった。定期往診(今では在宅患者訪問診療という)をし、癌性疼痛は麻薬予防投与で良好に抑えられていたが、終末期を迎えた本人の一番の苦痛の訴えは、今までの人生に対する後悔だった。
 「80歳までにお店を閉めて、好きな旅行三昧の余生を送りたかった」と繰り返し愚痴る。「あまり元気なので、八八歳まで仕事を続けてしまった。辞めた時には、すでに動けない身体になっていた。返す返すも残念だ」と言って泣く。当時50歳の私は、「88歳まで元気にお仕事ができたのは、幸せな人生ではありませんか」「寝たきり状態でおむつ生活を余儀なくされている人と比較しても、いい人生だったと考えてください」と説得した。しかし本人は「先生には分からん」と全く耳を貸してくれず、結局死の間際まで、人生を後悔する言葉をつぶやき、三途の川を渡っていった。
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 もしあの時、宗教家の説話に触れる機会があれば、心の安らぎや諦観を持って、人生を完了できたのではないかと今でも思うのである。
 現在の日本人の宗教をみると、大多数が仏教徒と神道信者、少数派のキリスト教徒、さらに少ないイスラム教徒である。しかし、仏教や神道の宗教活動は低調で、説話や説法で生死観を広く国民に啓蒙する機会に接することは少ない。いわゆる形式化された葬式、法事、お参りなどの習慣的宗教行事に留まっている。
 そこで提案がある。医師をはじめとする医療従事者やお坊さん、牧師さんなどの宗教家、哲学者、教師がスクラムを組み、生死観についての話題を提供し、国民と共に考える運動を展開したらどうだろうか。死に行く人々への説話、説法により心の安らぎを授ける活動を盛り上げるよう、医療界から働きかける策がないであろうか。
 この拙文が、日本人の生死観啓蒙になれば幸いである。
   
(前会長・小板橋  毅)

■群馬保険医新聞2012年2月号