群馬県の新型インフルエンザ対策 ―実地医家の懸念を整理してみると…―
群馬県衛生環境研究所長 小澤邦寿
群馬県の新型インフルエンザ対策の詳細については、県が今年2月に出した「新型インフルエンザ医療対応マニュアル(第1版修正版)」をご参照いただきたい。これと、同じく県が作成した「新型インフルエンザ社会対応マニュアル(市町村版)」を見れば、かなり細かな対策までもが網羅されており、よくできたマニュアルだと思う。がしかし、これは、所謂公的文書であって、ここに書かれていることすべてが、果たしてそのまま実行可能なのか、あるいはその効果の程はどうか、費用はどうするか、誰が主体を担うのか、などについては不明瞭な部分も少なくない。
CDC(米国疾病管理センター)のプログラムから試算すると、パンデミックが起こったとき、群馬県内では26万人の外来患者と、6700人の入院患者が発生し、1700人の死者が出ると予想されている。さてそこで、疑問符や不確定要素は数多くあるものの、医療機関や実地医家の懸念を整理すれば、おそらく以下のようになるのではないかと思われる。
①新型インフルエンザ発生の確率
②パンデミックは起こるのか
③感染力・毒力の程度
④医療従事者への有効な予防策
⑤現行の対策の有効性
これらの疑問について、私の承知する範囲でお話ししたい。あくまでも私見であることをご了解いただきたい。
●新型インフルエンザが発生する確率を門家はどれくらいとみているのか?
国立感染症研究所感染症情報センターのスタッフに聞いたところでも、「よくわからない」という答えしか返ってこない。専門家であれば尚更答えにくいということであろう。ともかく新型インフルエンザは、人類にしてみれば未体験ゾーンだということだ。私自身は、「10年以内に新型インフルエンザが発生する確率は50%」とひそかに考えている。もちろん、単なる直感であって何の根拠もないのだが。
●新型インフルエンザが発生すれば必ずパンデミックになるのか?
H5N1新型インフルエンザが発生すれば、人類にとっては全く免疫のないウイルスであるので、パンデミックになる可能性は高い。さらに、新型インフルエンザが発生するとすれば、それは東南アジアであろうことは専門家の一致した見方だが、東南アジアの医療体制で、発生した新型インフルエンザがその地域で封じられ、うまく押さえ込めるとはとても考えにくい。加えて、交通の発達により人の往来が活発なことから、パンデミックに拡大することはまず避けられないだろうと予想される。
●新型インフルエンザウイルスの感染力・毒力はどのようなものと予想されるのか?
H5N1高病原性トリインフルエンザがヒトに感染した際の致死率は、これまでの320例で6割をこえている。これが変異して新型インフルエンザに進化した場合、ウイルスの感染力と毒力はどうなるのか。例えば、人類初のパンデミックをひき起こしたスペイン風邪は、全世界で5000万人の死者を出したが、このH1N1ウイルスは弱毒型であり、国民の25%が感染し、その2%が死亡する、すなわち国民の100人に0.5人が死亡する程度の毒力であった。ここで言う弱毒型とは、上気道炎を主体とした呼吸器に限局した感染症を起こすだけで、全身性のウイルス血症を来すことが少ないという意味である。
これに対し、トリ型H5N1ウイルスは強毒型であり、下気道すなわち気管支炎・肺炎を主体とし、全身性ウイルス血症を来す率が高いため、多臓器不全や脳症を併発しやすいというおそろしいウイルスである。この危険な性質を保ったままヒト型H5N1に進化すると、最悪では、国民の30%が感染し、その20%が死亡する。すなわち国民の100人に6人が死亡するという「最悪以上の最悪」のシナリオも想定されている。全世界では、最大5億人の死者が出るという極端な予想もある。ただし、これには異論もある。インフルエンザウイルス弱毒型は、上気道炎主体で低温馴化株であり、呼吸器感染に限局しているために、咳によってウイルスが多量に排出され感染力がきわめて強いという特徴を持っている。これに対し、インフルエンザウイルス強毒型は、下気道炎主体の高温馴化株(鳥は人より体温が高い)で、重症肺炎やウイルス血症を起こす全身疾患型だが、咽・喉頭にはウイルスが少ないので、咳によるウイルス排出は少なく、毒力は強いが感染性は高くないという性質を持っている。
要するに、「強毒性と高感染性は両立しない(だろう)」というのが、いわば「インフルエンザウイルスの法則」なのである。トリ型からヒト型への変異の過程で、ヒトへの感染性が高まる分、毒力は落ちるだろうといわれている。ただし、もちろん法則には常に例外があり得る。
●最前線で新型インフルエンザ患者の診療にあたる医療従事者に対する、
ミフルの予防投与やプレパンデミックワクチンの効果はどうか?
現在、全国民の22%分のタミフル備蓄がある。最前線で診療にあたる医療従事者に対しては、常用量の倍量の投与がおそらく推奨されるものと思うが、この分の供給についてはまず問題ない。タミフルの新型インフルエンザへの効果については、不明としかいいようがないが、A型であるからには、効果が全くないということはなかろう。問題は耐性ウイルスの出現である。
一方、プレパンデミックワクチンはすでにできており、大部分はまだバルクの状態で存在する。効果に関してはこれも未知数だが、トリ型H5N1のワクチンなので、ヒト型H5N1への変異が起こったとしても、ある程度の効果は期待できる。タミフルとワクチンを併用すれば、完璧な予防にはならないにしても、かりに感染しても重症化は防げるものと思う。医者という仕事を選んだ以上、これでだめなら諦めるしかないと私は考えている。別に格好をつけているわけではないが。
●現行の対策はどの程度奏功するのか?
新型インフルエンザが発生した場合、我が国の基本的な戦略としては、強力な水際作戦(検疫)でまず侵入を遅らせる。侵入後はできる限り患者の発生を少なくし、時間を稼いで、ワクチンの生産が間に合うようにする、ということにつきる。これによって、全ての部署に時間的余裕を与えられれば、患者の大規模発生をある程度までは抑制できることが期待される。現行のマニュアルは、まだ状況が差し迫っていないこともあって不備な部分もあるかもしれないが、危険度を示すフェーズが上がれば、具体策を講じながら逐次改訂されるものと思われる。ともかく、対策は国の単位で行われるものであって、群馬県のみ独自の対策を立てて効果を上げるなど望むべくもない。さいわい、プレパンデミックワクチンの製造は順調に進んでいるようで、今後優先順位にしたがって接種が開始されることになろう。
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さて、最後に押さえておきたい最も大事なことは、新型インフルエンザ発生時、それも最悪のシナリオ下においては、その国家の「共同体としての理念・叡智・実力が露呈する」ということである。
危機に際して、政府・国民・医療従事者の行動原理が露わになったとき、その国が本当に守りたいものが何であるのかが自ずと明らかになる。国民が自己の安全にのみ汲々とするならば、共同体としての尊厳が失われることになりかねない。多民族国家で不安定要因をかかえる国などでは、新型インフルエンザのパニックから、治安の悪化や社会不安が招来される可能性も考えられる。しかし、日本に限っていえばその懸念はまずあたらない。大災害時における行動規範の高さに関して、日本人はおそらく世界一である。しかしながら、人的・物的に総動員したとしても医療資源は有限であり、国民全員を助けることはできない。局面によってはトリアージが必要となるだろう。そのとき、誰かが勇気を持ってトリアージを行い、治療の打ち切りや優先順位を決め、他の人たちはそれを受け入れなければならない。そしてもちろん、その誰かとは医師以外にはいないはずである。
■群馬保険医新聞 2008年5月