【診察室】有床診療所の変遷

【2008. 11月 20日】

【診察室】外科

  有床診療所の変遷
          
     前橋市・医療法人社団中嶋会 中嶋医院 中嶋宏治
 1)開院当初
 当院は昭和56年1月1日前橋市東部小屋原町に19床の有床診療所として開院しました。オイルショック後遺症の真っ只中での開院で銀行融資は年8.5%の高金利での決着となり気の重い船出であった。ただ医療公庫(現在の福祉医療機構)の借り入れが可能で、その分銀行融資が減り助かった。
 開業2ヶ月目で、ほぼ満床となったが、外来患者は30~40名が5~6ヶ月続き苦戦していた。2月初旬、某自動車教習所の送迎車が交通事故を起こし午後7時頃から15~16人の受傷者が来院。2名入院、他の患者の検査、治療が終了したのは翌日となり、当日の外来診察直前まで職員4名は寝ずの診療となり大変でした。3月下旬の初回診療報酬(1月分)と、この交通事故治療費の銀行振り込みが重なり、これを契機に経営状態は軌道に乗った。
 当院から東と伊勢崎西部には、外科系医療機関は皆無で広範囲の地域から入院、外来患者が集まり、又救急指定医療機関であった為、交通事故や労災患者等まで幅広い患者層がありました。一時期交通事故患者の若者が待合室を我が者顔で占拠し、一般患者が怖がり来院できない状態であったが、ある時点、全職員が毅然とした態度を取り追い払った。
 手術は腹部外科中心に朝から真夜中まで行い、ある時、止血困難な胃癌患者で夜間に手術開始し手術が終わり患者を病室に運びカーテンを開けたら夜が明けていたり、正月2日近所の住民が来院しイレウス症状あり、ガストログラフィンで胃腸透視を行うが、造影剤は通過し診断が確定せず、何かで閉塞しているものと考え、開腹したところ回盲部直前の回腸に糸こんにゃく塊がそのままあり、摘出したこともあった。
 職員は勿論ですが、国立高崎病院の戸塚先生、前橋赤十字病院の先生方、現在の平井外科の平井先生には昼夜を問わずお手伝い頂き大変お世話になり、今の中嶋会があるのはこれらの先生方のおかげだと心より感謝しております。
 只只、充実した楽しい時期でした。

 2)市医師会理事期
 平成4年2月突然前橋市外科医会中村賢吉副会長より電話で、市医師会理事就任の打診を受けたが、次の日入院患者は常時満床で急変時の対応等が困難で患者や御家族に迷惑をかけるので受けられないと断りに出向いたが、現在病院や有床診療所の代表(理事)がいない、救急担当と夜間診療所の担当としてもう決まっているので断られても困る、市医師会長と外科医会長も既に了解している、の一点張りで辞退できる状態でなく、やむを得ず患者の急変時や断れない患者の際には何時でも帰院させてもらうという条件で引き受けた。実際なってみると全くそんなこと出来る相談ではなかった。
 貴重な時間を割いて理事になるのだから目標を決めてやってみようと考え、
 ①新規開業の先生方の開業前後、即ち一番手助けの必要な時期にお手伝いをする。
 ②夜間の救急患者がたらい回しされないよう病診・病病・診診連携のシステム作りをする。
 ③在宅医療の推進。
 上記3項目を3期(6年)で目途を立て退任しようと考えた。
 市医師会は八木会長の下、優秀な役員揃いで各々独自のポリシーがあり、特に郡市医師会のオピニオンリーダーとしての自負を持ち着々と担当事項をこなしていた。この中に入って本当にやっていけるのか不安の毎日でした。
 理事就任2~3ヶ月たった頃と思いますが、理事会に新規開業の某先生の新規指導の一件が議題に出て、継承会員でもなければ開業前後は左も右もわからず右往左往して困惑しているので、出来る限り便宜を図りたいと提案したところ、ある役員から“新規開業医の近隣には既存の先生方もいるので、この先生方の事も考えてもらわないと困る、敵(新規開業医)に塩を送る必要はない“と言われた。入会させて(入会金や分担金をもらって)おいてそれはないのではないか、“開業前後の先生は何から何までわからず頼る人も少なく、不安の毎日を手探り状態で送っています。こういう時のお手伝いをするのも医師会執行部の重要な仕事の一つと考えられるのでは”と反論しました。数日後、ある理事が「今度新人類の理事が入ってきた」と言われていると私にこっそり教えてくれました。それ以来常時辞表を懐に入れ、事に当りました。
 7年間の理事生活で、救急、准看学校、保険診療、医業対策を担当し、その中では前橋赤十字病院の救命救急センター開設が大仕事でした。八木会長と日赤の塩崎院長の強力なリーダーシップで現在のすばらしい日赤の救命救急センターの基礎が築かれたものと自負しています。
 浅学非才の私が何とか大過なく切り抜けられたのは八木会長、曽田・中村両監事、同僚の平井理事、後藤医業対策委員長等を始めとし、他の役員や会員の先生方、深澤事務長を筆頭に医師会事務職員の皆様のご支援ご指導のおかげでした。この7年間は忙しかったが私の人生に於ける転換期でもあった。
 理事になると外来患者が減り大変だと言われたが、理事の仕事を始めて3~4年は在宅医療を取り入れた結果、診療報酬は理事前と余り変化ありませんでしたが、5~6年後に急に外来は以前の7割程度、病室は空床が目立つようになり、家族、職員からも理事を辞めてくれコールが強くなった。只、3期目の終りに市医師会長選挙があり諸般の事情により辞めるに辞められず4期目もやる羽目になり、更に私の息子達3人の大学受験も重なり、大変な時期でした。
 この2年間で、診療所は立て直しの出来ないほど疲弊し大変な事態となっていました。

 3)理事退任後
 平成11年4月有床診療所単独での存続は困難と考え、介護事業との併用を考え、平成12年19床中12床を療養型病床(医療6床、介護6床)に転換。平成14年4月には60床の老人保健施設、居宅介護支援事業所、訪問看護ステーションを開設した。中嶋医院の立て直しと開設老健を早期軌道に乗せる事や職員集めで大忙しの毎日でした。
 中嶋医院と併設老健の相乗効果により、満床状態が継続して平成18年1月、16床のユニットケア棟を増床、半年位は利用者にも多少の“ゆとり”があったが、その後は焼け石に水の状態となり、入院、入所のベッド管理が窮屈になってきた。
 現在、医院は併設老健で状態が悪化した利用者や、前橋赤十字病院、県立心臓血管センター、近隣の開業医の先生方の紹介入院が主体となっており、病状が安定、回復したものは併設老健や他の施設へ転院とし、以前の外科医院の面影はありません。言い方を代えれば修理工場さながらです。
 外来は農村地帯、施設利用者、当院の老齢化等により後期高齢者主体の医療となっています。
 ただ、国の猫の目行政や財源不足を考えると、高齢者主体の診療体系は将来経営上危惧ありと考え、何とか若者の受診行動を伴う方策を模索しています。
 平成20年4月より循環器内科の長男が金曜日から月曜日まで外来を手伝ってくれて大変心強く思っています。私も63歳になりましたが、引き続き地域医療に貢献できればと思います。市内の救急病院のコンビニ化を少しでも防ぐべく夜間も身体の続く限り患者を診ることにしています。只、当院の夜間救急は現在のような夜勤可能な優秀な職員をいつまで確保できるかにかかっています。
■群馬保険医新聞2008年11月号