【論考】
私の考える総合医
吉井町 田路 了
◎専門医としての総合医
総合医は、一人の医師が医学という総合知識を駆使して、目の前の患者にできるだけのことをするという全人的医療が基本です。それには内科外科等の単科意識はなく、全ての診療科目に対してプライマリーケア的な知識と基礎的診療技術が必要です。
またその診療対象を小児から老人、また医師の社会的活動として地域医療、学校保健、産業保健、公衆衛生と医学が関わる分野すべてに意識を広げる必要があります。
◎研修と指導
総合医になるためには、まず卒業時点で自分から複数科にわたって知識と技術を習得するという努力と覚悟が必要です。研修医の二年間のスーパーローテーションで将来の専門診療科目を選ぶのでなく、今後二度と経験できないかもしれない診療科目での経験を大切にするべきです。 総合医になるためには内科全般の経験はもちろんですが、外科的技術の習得、救急救命の経験、小児科の経験は必須と考えます。しかし研修医二年間は良いとしても、その後は総合医の前に立ちはだかる現場の壁は厚いものがあると感じます。
例えば、「技術の継承」という特殊な教育システムがある外科系では、将来外科医を目指さない医師(総合医)と目指す医師(外科専門医)がいれば、外科専門医の育成の為に、優先的に外科医を目指す医師にメスを握らせます。しかし総合医を目指すものも、ある程度の専門的技術を習得するという経験が必要です。
総合医を目指す医師だけでなく、彼らを育てる各科の指導医も、総合医への認識を新たにする必要があります。
◎適正
研修の段階で個人の進む道の適正について、他人がどうこう言うことは難しいのかもしれません。しかし、経験を積んだ現場の医師にしてみれば、その医師の臨床医としての方向性は見えてくるように思います。
全国の研修病院の指導医の先生方の「貴方は総合医にむいている」の一言が、この国の将来の総合医を創る第一歩と思います。そして指導医の先生方の他科にわたる協力と忍耐、本人の日々の努力が必然です。
◎僻地医療
総合医にとって僻地医療は、個人対個人のコミュニティー能力、人間を人間としてとらえる人文科学的なアプローチを学ぶ医療現場として最適です。そして一つの地域の中で長い年月に創られた医師と患者の関係の継続性を体感するべきです。
また個々の能力において、自分唯一人で何ができて何ができないのかという自己の「見極め」と「判断力」、そして医師としての重責に潰されない「度胸」を付ける意味で必要な経験と考えます。
望まれる医師像 僻地の総合医は、医療全般に対してその置かれた状況下で自分の限界を見極めつつ、最大限の能力を発揮する必要があります。しかし、僻地でない都心部でフリーアクセスが確保されている状況では、総合医は判断はするが、自分が治療(行動)をするよりもより良い治療(行動)のできる方がいれば、自らの能力を一〇〇%稼働する必要はなく、紹介を選択します。 患者サイドからみると、極端に医師数が少ない(開業医もいない)僻地の住民の求めている医師像は「何でも診てくれる医師」です。それに比べて、僻地ではない「専門を掲げている開業医」が溢れている地域の住民が求めている医師像は「これとこれをしっかり診てくれる医師」です。なぜなら、その住民はフリーアクセスができるからです。
都会でも、優秀な総合医がいて患者の病状が診療できる範囲の状況であれば、患者は他科にわたって診療所を受診しなくてもすみます。しかし、現実には患者さんはより良い医療(高度な専門医療)を望まれることが多いと感じています。
◎コーディネーター
地域において診診および病診連携ができていれば、通常の地域で求められている医師像は、病院まで行かなくてもすぐに診てくれる準専門医(あるレベルまでの診断と治療をこなす地域の専門医)のように感じます。
私は地域の総合医の役割は、患者さんを診るだけでなく、地域医療機関の連携をコーディネートすることも役割の一つだと考えています。総合医がまったくいなければ困りますが、多くは必要ありません。国をあげて「総合医」だけ増やしても、この国の患者さんはあまり喜ばないと思います。総合医が紹介できる専門医(勤務医)と地域の準専門医(開業医)も育てないといけないのだと思います。(田路クリニック)
■群馬保険医新聞2008年11月号