保険医協会の活動の目的はご存知の通り、住民の健康の維持増進をめざし、医療制度と医療関係者の生活を守ることである。そのために、理事会、および歯科会を月例の会議として開催している。
一般会員にはなかなか伝わりにくいかもしれないが、現在の理事会の雰囲気は、私が理事になった四半世紀前とはだいぶ違う。当時から自由な発言は保障されていたが、親より年配の理事も多く、少なくとも私にとっては、とても思ったことをその場で言えるような「フランク」な場ではなかった。それに比べ、最近の理事会では、各理事は自分の意見を堂々と述べる。すばらしいことである。それとともに、善し悪しはともかく、会員の望む協会の「姿勢」も以前とは変わってきているのではないか、と思うこともある。
今や理事の中でも学生運動を経験した世代は少数派になっている。つまり、自分の生き方、思想を直接問われるという経験をしたことのない世代が、今の医療従事者の中では中心的、あるいは実働的な主体となっている。そのような状況においては、互いの価値観の多様化を認め合わないとコミュニケーション自体が成り立たない。別の見方をすれば、集団としての価値観の統一というプロセスを経ない、いわば「緩い団結」の中での存在が日常化しているともいえよう。
「歳だ」と批判されることを承知で言うならば、今の若い世代は「偏る」ということに過度に神経質になっているように思える。人間、あるいは団体が一つの意見を持つ、あるいは主張するということは、その時点ですでに「偏った」ことになるのではないだろうか。「国民の立場」「医療を守る立場」に立つということは、換言すれば国民の側、医療の側に「偏った」ということではないだろうか。これを避けるということは、何も言わない、何もしないことだともいえる。「偏る」ことが多くの人たちの利益に合致する、あるいは人間の命を尊重することになるならば、医療人としてそれを堂々と主張して、ある意味、偏るべきではなかろうか。運動とはそもそもそういうものである。
さて、「保険医協会は特定の政党色が強いのでは」「政党色をなくせばさらに会員は増えるのでは」という声は、会員のみならず、理事の中からも時折聞かれる。「保険医協会が医療問題を取り上げるのはいいが、憲法や基地問題等にまで口をはさむ必要はないのでは」といった意見もある。誤解のないように申し上げるが、保険医協会が特定政党の支持を訴えたことはいまだかつてないし、選挙においても特定政党や候補者を推薦したこともない。中央行動に際しても、全ての政党に集会への出席依頼をしている(ただし、出席するか否かは政党により異なるが)。もちろん政治連盟もない。
では、「医療問題」以外の事柄になぜ保険医協会が意見をもつのか、私見を述べたい。
まず、憲法改正の手続きを規定した第九六条の改定の問題から考えてみる。憲法について広辞苑には、「国の統治権•根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律、命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる」と記載されている。つまり、憲法は国家権力を規制する最も重い法律であり、時の政府の都合で簡単に変えることがあってはならないものなのである。また、改憲手続きの敷居が高いのは、人々が時として判断を誤るというリスクを防ぐ意味も当然ある。また、憲法第二五条では、国民の生存権と国の社会的使命を規定している。我々が守るべき医療のあり方の根本は、ここに規定されている。これを軽視しようという動きに対し、医療人として抵抗するのは当然であろう。
次に、基地問題についてはどうだろうか。これは日米安保や戦争に関する事柄である。戦争は大量殺戮であり、生命を扱う医療人としてこれを看過することは許されまい。ひとたび戦争が起これば、その戦費を確保するため、社会保障費等が縮小され、結果として国民の命や健康は軽視されるであろう。健康を守る医療人としてこの問題に関わるのは当然ではないだろうか。
消費増税の問題も同様である。税制の操作により、国は簡単に国民から血税を搾り取ることが可能である。また、保険診療の損税は、消費増税によりさらに医療機関の経営に重くのしかかってくる。医療機関の経営が苦しくなれば、医療の質にも影響が及ぶことが懸念される。
原発の問題もいわずもがなで、医療人として、放射線被曝による健康被害に対し、無関心でいることは許されまい。
先の参院選は、今後の国民の生活に直結した、これらの極めて重大な決定を国民に問う選挙だった。我々は、住民の健康を守る医療人として、会員あるいは住民に正しい情報を提供し、正しい選択をしてもらうよう努め、主張する――これはとりもなおさず保険医協会の会員に対する、そして住民に対する責務ではないだろうか。ただし、時代の変化に伴い、誤解を与えないような、あるいは若い世代にもなじみやすいような表現を用いることも今後の課題といえよう。
医学は自然科学に分類されるが、人と関わったときから医療となり、この時点で政治や経済、環境問題といった社会科学、人文科学と無関係に成り立つことは不可能なのである。一見、医療と無関係のように映る事柄も、社会の中で起こっている限り、決して無関係とは言い切れず、逆に狭義の医療問題のみに特化して対応することにより、かえって社会というものが見えなくなっては、医療の充実も疑わしいものとなろう。
我々は医療人であると同時に当然ながら社会の構成員でもある。
(副会長・清水信雄)
■群馬保険医新聞2013年9月号