最近、編み物がブームになっているようだ。そのきっかけは、今から4年前に開催された東京オリンピックだといわれている。英国の飛び込み選手、トーマス・デーリー氏が競技の合間に編み物をしている姿が報道され、大きな話題となった。彼の穏やかな表情と集中した手元は、スポーツの緊張感とは対照的で、多くの人々の心を惹きつけた。また、韓国の人気アイドルによるSNS投稿も影響力を持ち、編み物を楽しむ様子がファンの間で拡散され、関心を集めている。最近では、アイドルや著名人が自ら手がけた編み物作品をSNSに投稿するケースも増えており、編み物は単なる趣味を超えて、自己表現の手段としても注目されている。
こうした流れの中で、編み物を始めるための環境も格段に整ってきたと感じる。私自身の記憶を辿ると、子どもの頃、母が家族のためにセーターを編んでいた姿が思い出される。小学生の時、母から編み物の手ほどきを受け、初めて自分でセーターを編んだ。青と紺の2本の毛糸を合わせ、新しい毛糸ではなく、着古したセーターをほどいて再利用したものだった。ほどいた毛糸はラーメンのように縮れていたが、いくつかの工程を経て、まっすぐな状態に戻した。昔は、衣類が大量に販売されていなく、布や毛糸を古くなっても大切にして再利用したものである。
たとえば、100円ショップでは毛糸や編針、編み棒、さらには編み物に必要な小物類まで、驚くほど豊富に取り揃えられている。書籍や雑誌だけでなく、インターネット上には編み方を紹介するサイトが多数存在し、動画コンテンツでは文字や写真では伝えにくい技術を繰り返し確認することができる。初心者でも気軽に取り組める環境が整っているのだ。
編み物の魅力は、何といっても「いつでも、どこでも」できることにある。同じ動作を繰り返すことで心が落ち着き、無心になれる時間が生まれる。これはストレスの軽減につながり、癒しの効果があるとされている。さらに、作品が完成すれば達成感を味わうことができる。私が編み物に最も熱中していたのは、20代後半、大学病院で研修医として過ごしていた多忙な時期だった。忙しい日々の中でも、一人で、好きな時間に、好きな場所で、そしていつでも中断できるという柔軟さが、編み物の大きな魅力だった。
ストレス社会と言われる現代において、編み物を通じて心を落ち着かせ、ストレスを解消する「ニットセラピー」が注目されている。デジタル機器から離れる時間を持つことで、いわゆる「デジタルデトックス」の効果も期待されている。
日本では、手仕事の実用性や芸術性が重視される傾向があり、編み物は主に趣味や実用的な手芸として認識されてきた。マフラーやセーターなどの実用品を作る手段として、あるいは贈り物として手作りの温かみを伝える方法として親しまれてきた。また、編み物サークルなどのコミュニティ活動としても広く普及しているが、その多くは趣味の集まりとして位置づけられている。近年では高齢者施設などで、脳の活性化や手先の運動として取り入れられているが、セラピーとして体系的に活用されるようになったのは、ごく最近のことである。
一方、欧米では手仕事を通じた精神的な癒しという考え方が古くから根付いており、それが現代のセラピーとして発展してきた。編み物が治療的な効果を持つという認識は、20世紀初頭のイギリスにまで遡る。第一次世界大戦中、負傷した兵士たちの心の癒しとして編み物が導入された。手を動かす作業を通じて、戦場でのトラウマに苦しむ兵士たちの精神的安定を図った。この試みは予想以上の効果を上げ、その後、病院や療養施設でも取り入れられるようになった。気晴らしとして始まった活動だったが、患者の心理状態や集中力の改善に役立つことが認識され、こうした実践の積み重ねが、現代のニットセラピーの基礎となっている。
「編むことは力」というタイトルに強く惹かれた。編み物は個人的な営みであるだけでなく、市民の連帯や革命の原動力にもなり、フェミニズムや社会運動のツールとしても活用されてきたという。この力を辿るエッセイが『編むことは力:ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎ合わせる』である。著者はイタリア出身のエコノミストで、2019年に出版された。2020年にはアメリカとイタリアで刊行され、コロナ禍のロックダウン時に編み物を始める人が増えたことで本は大ヒットし、これまでに6か国語に翻訳された。日本では昨年12月に刊行されて以来、大きな反響を呼び、現在7刷と版を重ねている。
著者は幼いころから編み物を友としてきた。本書は編み手の視点から、歴史と編み物の関係を探っている。フランス革命で自由の象徴となった赤い帽子、植民地時代のアメリカでは手編みによってイギリス製品のボイコットを行った。戦後のヒッピーファッションは脱西洋文明、ユニセックスといった思想を反映したデザインであり、さまざまな事例が紹介されている。
編み物は、個人の日用品を作る手技であると同時に、社会的・政治的な抗議やメッセージの表明手段でもある。現代における手仕事やクラフト運動の意義とも共鳴する部分が多く、日常的な行為が社会変革につながる可能性を秘めている。
現在、日本で編み物が流行している背景には、政治的な抗議というよりも、癒しを求める気持ちや、日々の生活への違和感、大量生産・大量消費への疑問、環境問題への関心があるのではないかと思う。
一本の糸は一次元。編むことで面となり二次元に、さらにセーターなどに仕立てれば立体となり三次元になる。多様な作品が創造可能である。そして、ほどけば一本の糸に戻る。やり直しができる。だからこそ、編み物は奥深く、面白いのだ。
(文化部長 北條みどり)