民主主義と命と健康
ウクライナ危機といわれるこの戦争はいつまで続くのか。一向に先が見えない。この間にも、一般市民を含む日に何十何百という命が失われている。
21世紀にこんな殺戮が行われようとは、ほとんどの日本国民は想像だにしなかったのではないだろうか。
私は1954年生まれだが、小学生の頃、21世紀という時代は『鉄腕アトム』のような、ロボットと人間が共存する平和な社会になるだろうとワクワクしたものだ。
しかし現実は、社会進歩の時計が逆回転するような事態が勃発している。
今、世界中で新型コロナウイルスの感染拡大が収束できずにいる。ウクライナでも、もちろん例外ではなかろう。
しかし、ウクライナ国民にとってはそれどころではない。敵の爆撃を避けるため、地下で身を寄せ合いながら怯えている人々の映像が流された。しかも密閉された薄暗い空間でマスクもしない状態。当然ウイルスは蔓延しているはずである。しかし、命あっての物種。快適な環境、充実した生活、生き甲斐のある人生、そんなことは二の次三の次。とにかく生きること、国を守ること、それこそが一番で、人間らしい生活は後回しにされる。
今回のロシアの侵攻を、プーチン大統領は「NATOの脅威に対抗するため」と正当化しているが、それが真意なのかはわかりかねる。ロシア国民も同じ考えかどうかはともかく、何れにしてもそのためにとんでもない惨事が起こっている現実がある。
欧米各国が協調してロシアに非難や制裁を科しているのは当然だと思う。しかし冷静になってみると、責められるべきはロシアだけか。
2003年、当時の米ブッシュ政権は、イラクの大量破壊兵器保有を口実に先制攻撃を加え、民間人を含む多大な犠牲者を出した。当時の日本の小泉政権は、アメリカのこの行動をいつになく即座に支持した。
また、もともとはイギリスに責任のあるイスラエル・パレスチナ紛争では、軍備に圧倒的に勝るイスラエルが、幾度となくパレスチナを砲撃し、今も多大な犠牲者を出している。
これらの紛争も多大な市民の犠牲者を出しているにも関わらず、国際社会が協調して批判や制裁を科したことはなかった。アメリカがどちら寄りの立場を取っているのかが大きく影響していると考えられる。
常識的にみて、プーチン政権の行動が異常であることに疑う余地はない。ただし、どこからみた常識なのかはまた別の評価となろう。ここでは、民主主義的観点としておく。
民主主義とは「権力、あるいは権利が人民(国民)にある」とする政治原理をいう。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示すとされている。
人民(国民)が自由な判断をするには、その判断基準となる正しい情報が得られなければならない。徴兵制を敷くロシアでは、その対象となる若者が、行き先も知らされないまま今回の戦場に駆り出され、既に何万という兵士が帰らぬ人となったと聞く。徴兵された兵士に民主主義は適用されないのか。
権力が一人に集中すると、その言動に明らかな問題があっても、周囲は自らの命や地位を守るため、権力者に対して不快な情報を隠し、あるいは偽の情報を伝えるようになる。いわゆる「裸の王様」状態である。これにより、権力者は己の俯瞰的な状況を見誤ることになる。そして権力者以外の誰かが犠牲となる。今のロシアがまさにこの状態にあるが、わが国でも程度の差こそあれ、似たような状況があった。
「森友・加計問題」「桜を見る会」等、社会人の誰が考えても疑惑の残る事柄が、それを指摘する記者からの質問に対しても、権力者周辺の「批判に当たらない」との木で鼻をくくったような答弁で受け流されてしまったことは記憶に新しい。
これは、民主主義にとって実に危険な兆候である。
さて、私は以前から、医療人としての戦争反対の根拠を
・多くの命を奪う大量殺戮
・負傷者の激増による医療体制の逼迫
・(その一方で)戦費捻出のための医療費等削減
としてきた。
そしてわが国でも、ロシアの脅威を軍事拡充の口実にする意見もあるが、これには断固反対である。
今、日本がそのような方向に進めば、現在少なからず日本と対立関係にある国々の感情を逆撫ですることになり、不要な緊張関係を増長させることになるからである。
そして、もう一つ私が実感していることは
・外交は最大の防衛
である。
外交を選択肢に入れなかったプーチン大統領の失策と罪はとてつもなく大きい。
(総務部長 清水信雄)