HIV感染者の歯科治療の機会は、大きく分けて3つに分類される。

 1つ目は、歯科診療所に直接来院する未診断あるいは未告知のHIV感染者である。未診断のHIV感染者は自身の感染に気づいておらず、当然ながら未治療であり、血中HIV-RNA量は1000〜100万コピー/㎖に達することも珍しくない。一方、未告知の感染者は強力な多剤併用抗HIV療法(Highly Active Antiretroviral Therapy;いわゆる「ART」)を受けている可能性が高く、血中HIV-RNA量は検出限界値未満であると考えられる。山本ら(2009)によれば、HIVに気づかないまま歯科診療を受けていたと回答した患者は、調査対象者929名中403名(43.4%)に上った。また、小川ら(2017)の報告によると、群馬大学医学部附属病院を受診したHIV感染者のうち66%が診断後に他院を受診しており、診療科目の内訳は歯科、一般内科、皮膚科が多かった。さらに、そのうち70%はHIV感染を未告知で受診しており、理由として、「診療拒否されたくない」「差別が怖い」といった声が挙げられている。感染症の有無を完全に把握することは困難であるため、日常的に標準予防策を徹底することが何より重要である。

 2つ目は、自己告知のHIV感染者である。未告知の感染者と同様に、血中HIV-RNA量は検出限界値未満である可能性が高い。このようなケースにおいて、診療拒否が発生することは決してあってはならない。しかし現実には、HIV感染症に対する医学的理解が不十分なまま、エイズパニック時代の「深刻さ」や「絶望感」といった負のイメージを引きずり、「感染力が極めて強い」と誤認して診療拒否に至る例がある。診療拒否を行う歯科診療所では、感染症の有無によって感染対策に濃淡をつける傾向があり、自己告知のHBV/HCV等感染症患者に対しても感染症陰性とみなした患者とは異なる「感染経路や人権を無視した不適切な対応」がなされている可能性がある。慣習に囚われた感情論に基づく感染対策は愚策であり、科学的根拠に基づいた対応が求められる。近年、国連合同エイズ計画(UNAIDS)は検出限界値未満の状態が6か月以上維持できていればコンドーム未装着の性行為でも感染しないことが証明されているというメッセージ「U=U(Undetectable=Untransmittable)」を発信している。HIV感染症は例え未治療であったとしてもその感染力はHBV/HCVに比べ遥かに弱く、一般的な歯科治療を行う上で恐れることのない感染症である。常日頃より標準予防策に則って感染対策を行ってさえいれば、HIV感染者が突然治療に訪れたとしても、特別なことは何ら必要とせず他の患者と同様に普段通りに治療を行えばよい。なお、標準予防策を行っていないことを理由に診療拒否をすることは、決して許されることではない。

 3つ目は、各都道府県主導でエイズ拠点病院と歯科医師会との間に構築された「HIV感染者の歯科治療ネットワーク」への参加である。このネットワークを通じて紹介される患者はARTを受けており、原則として血中HIV-RNA量は検出限界値未満である。群馬県では希望者に対して曝露後予防内服(PEP)の薬剤提供が行われている。このネットワーク事業は、厚生労働行政推進調査事業費補助金事業としてブロック拠点病院の歯科関係者や自治体などに対し参加を募り、各都道府県の自治体主導でエイズ治療拠点病院と歯科医師会などの協力のもと各自治体独自の基準で運営されているようである。群馬県ではHIV感染者等歯科診療連携事業として平成29年(2017年)に開始された。歯科診療所におけるHIV感染者等に対する偏見や差別が根強く、診療拒否が頻発する状況を受けこのようなシステムが全国的にも整備されてきた経緯がある。参加方式は建前上「手挙げ制」であるが、実際には各郡市区歯科医師会より適任者とされた歯科医師に直接要請があり、了承すれば参加となる、いわばトップダウン手挙げ制である。群馬県における参加率は3%程度にすぎず、参加する歯科診療所が極めて少ない現状では非参加の歯科診療所からは「厄介な仕事が一部の者に押し付けられている」との印象を持たれていると思えてならない。このような体制のままでは「HIV感染者の歯科治療が極めて特殊性が高く、感染対策に長けた歯科医師にしか診療できない」というレッテルを貼られ続けるだけであり、偏見や差別の改善にはつながらない。根強い偏見や差別は静観していても何ら変わらないことは歴史が証明しているため、何らかのカンフル剤の必要性を強く感じる。ブロック拠点病院の歯科関係者によるHIV感染症の歯科治療に関する講演会や研修会が実施されてはいるが、対象はネットワークに参加している歯科医師に限られている。参加者が増えなければこの事業自体先すぼまりとなってしまうのは明白である。

 ここで、『HIV陽性者の歯科治療ガイドブック(2024)』から原文のまま数文を紹介する。「歯科医療従事者の『HIVの感染や風評被害が怖い』という言い訳は残念としか言いようがありません。今やHIV感染症を医学的に正しく理解し、HIV陽性者を差別なく診療することは医療従事者としての責務であり、歯科医療のプロフェッショナルとしての矜持を堅持するためなのです。」「ネットワーク構築はあくまで現実的、暫定的な対応と認識すべきです。ましてや、HIV陽性者の歯科治療を拠点病院の歯科部門に送るとか、一部の先生に任せてしまうのは本末転倒であり恥じるべき振る舞いです。歯科医師としての応召義務に則れば、HIV陽性者の歯科治療は、本来、すべての歯科医院が受入れるべきという結論に達します。」

 遅々として進まないHIV感染者の歯科診療のネットワーク事業は各都道府県によって運営体制が異なり、統一性がなく、参加を促す制度も存在しない。今こそ国が主導して各都道府県の事業を統括し、日本医療機能評価機構などに委ねて、参加方式の改善、運用法の標準化、インセンティブの付与などを検討するべきである。その暁には、外感染の届出条件に「HIV歯科診療のネットワーク事業への参加」を加えることが望ましい。

(研究部・歯科部長 狩野証夫)